'07信州キャンペーン 「信州・風林火山」
「信州・風林火山」 イベント情報
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「信州・風林火山」 イベント情報

諏訪大社(上社本宮)(諏訪市)
全国に1万以上の摂社末社を持つ諏訪神社の総本社。古くから農耕や勝負、家内安全の神として信仰されている。諏訪湖の南に鎮座するのが上社本宮(諏訪市中洲)。前宮(茅野市宮川)は本宮の前身と伝えられ、諏訪盆地を望む景勝地にある。


高島城(諏訪市)
原作中、諏訪家滅亡の際に、周囲から自害を促される由布姫と山本勘助が遭遇した諏訪氏の居城。史実では、この時期の高島城は茶臼山にあった山城で、現在地には豊臣秀吉の家臣・日根野高吉が築城。かつては諏訪湖の波が城際まで迫り、別名「諏訪の浮城」と呼ばれた要塞。天守閣は昭和45年に復元。


小坂観音院・由布姫の供養塔(岡谷市)
信玄の側室、勝頼の母・由布姫の供養塔が境内に建つ真言宗のお寺。南信八名所、諏訪八景に数えられている。ご本尊は十一面観世音菩薩。近くの小坂公園はあじさいの名所でもあり、諏訪湖や八ヶ岳連峰が一望できる。


塩尻峠(塩尻市)
天文17年、上田原の戦いで苦杯をなめた武田軍だったが、同年夏、塩尻峠で小笠原長時の軍5,000余りを急襲。晴信(信玄)は体制を立て直し、信濃制圧へ大きく前進させることとなった。


新海三社神社(佐久市)
佐久地方の総社で古来より武将の崇敬を集めた。上州攻略の際、信玄が奉納した戦勝祈願文が残る。境内の御魂代石は耳を当てると諏訪湖の水音が聞こえるという。


小諸城址(小諸市)
白鶴城、酔月城の美しい別名をもつ小諸城は、信玄が山本勘助と馬場信房に命じて築かせ、武田氏滅亡後は仙石秀久によって完成された。現在は、懐古園と呼ばれ、園内には城ゆかりの武具や古文書を展示した徴古館、藤村記念館があるほか、小諸義塾記念館、郷土博物館、動物園、遊園地などの施設が点在する。天守や本丸跡などの石積みが残り、懐古神社横の鏡石は山本勘助愛用と伝えられる。入り口の三の門にかかる額の字は徳川家達の筆。詩碑や句碑も多く、桜の名所でもある。


松本城(松本市)
小笠原長時を破り松本平を手中にした信玄は、府中松本にあった深志城に注目して大改修を行った。武田氏滅亡後、長時の長男貞慶が入城し、城下町を広げて天正年間に松本城と改称した。その後、石川数正が入り、天守、櫓を建てて、現在見られる松本城が完成した。近年は太鼓門が128年ぶりに復元されるなど整備が進んでいる。

城下町松本を巡るのに便利なのが、1回100円で乗車できる周遊バス。松本城、謙信が信玄に塩を送った故事にちなんだ牛つなぎ石、蔵の町中町通り、善光寺道名所図会に当国第一の名水として紹介される源智の井戸などをカバーしている。



平倉城跡(小谷村)
上段、中段、下段の三段式の築城。上杉によって城を守っていた飯森盛春は、信玄の武将山県昌景に攻められて討ち死に、城は落ちた。その際、武田方では残党狩りを行い男は皆切ってしまったとの伝説をもつ「切った屋敷跡」などが残る。城跡の下を流れる中谷川を雨飾山方面へとさかのぼれば山間のいで湯小谷温泉に至る。


上田原古戦場碑(上田市)
千曲川左岸に広がる上田原は、都市化に伴って急速に姿を変えつつある。それでも新幹道路を一歩奥に入れば田園地帯が広がり、標識も整備されていて歴史ウォークが楽しめる。武田軍と村上軍の壮絶な戦いを今に伝える古戦場公園と、上田原一帯を見渡せる千曲公園はぜひ訪れたい。

信玄の重臣で勘助を庇護した板垣信方の墓には、信方が愛煙家だったとの言い伝えからタバコを供えると願い事がかなうともいわれている。観音寺は討ち死にした将兵をまつる。周辺には村上軍の将・雨宮刑部、屋代源吾基綱、小島権兵衛の墓が田園の中に建つ。



生島足島神社(上田市)
川中島の戦いを前に、信玄が戦勝と謙信滅亡を祈願した古社。信玄が家臣の武将らに忠誠を誓わせた起請文も県宝の歌舞伎舞台に展示されている。下社脇の夫婦欅は真田信之と小松姫の夫婦愛の象徴であり、子宝安産・夫婦円満・延命長寿のご神木として崇められている。


荒砥城跡(千曲市)
葛尾城と千曲川を挟んで対岸に位置する城で、村上氏一族の山田氏の居城といわれる。この城をめぐって、武田、上杉の戦いが繰り広げられた。現在、櫓や矢倉、冠木門などが復元され、千曲川を見下ろす史跡公園になっている。

大河ドラマ「風林火山」のロケで実際に撮影に使用され、劇中では武田晴信の初陣の場所「海ノ口城」として登場。(2月25日放送第8回「奇襲!海ノ口城」)



飯山城址(飯山市)
謙信が川中島合戦の拠点として築城。階段式に郭を配した「後堅固の城」で、12年間にわたる合戦でも落ちることはなかった。今は石垣が残る城址公園になり、桜の名所になっている。小京都ともいわれる飯山は寺の多い町。城址公園には寺めぐり遊歩道が整備され、しっとりした風情が楽しめる。


善光寺(長野市)
古くからの庶民信仰の寺。天文24年の第二回川中島合戦の後、信玄は本尊阿弥陀如来を甲斐へ、謙信は尊像や仏具を越後へ移した。武田氏滅亡後、本尊は織田信長、徳川家康、豊臣秀吉と渡り、42年後に信濃に戻ったという。寺には、信玄・謙信の位牌が並んで納められている。

境内横の城山公園は、川中島の戦いの折、上杉謙信が本陣とした横山城にちなむ名前。宿坊が並ぶ小道の散策や城山公園内の桜、信濃美術館東山魁夷館もおすすめ。



海津城(松代城)跡(長野市)
信玄が北信濃への最前線基地として山本勘助に命じて築かせた深い城。それまでの山城にかわり、他の武将に先駆けて平野部に築いた平城で、甲州流築城技術を用いたとされる。城の西を流れる千曲川の水運を意識して堀とし、その自然堤防上に本丸と二の丸を築く。自然の地形を巧みに利用した堅固な造りになっている。

初代城将は高坂弾正。築城当時は「海津城」と呼ばれていたが、関ヶ原の戦いの前に当時の城主森忠政が「待城」と改めた。その後、松平忠輝が「松城」と改め、さらに真田三代自藩主幸道のときに「松代城」に改められたという。平成7年からの整備工事で太鼓門や北不明門などが復元、かつての姿がよみがえった。本丸跡の石垣に上がると、謙信が陣を張った妻女山がよく見える。桜の名所としても有名。



八幡原史跡公園(長野市)
5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦い。永禄4年の戦いの舞台になったのが八幡原。第4回目の戦いが最も激しく、山本勘助、武田信繁などが戦死している。史跡公園の松林の中には静かに八幡社がたたずみ、境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像や三太刀七太刀の碑、両軍の戦死者を葬った首塚などがある。

公園を囲むように桜が植えられ、花の時期は見事。芝生広場や池などが整備されて子どもたちの格好の遊び場ともなっている。隣接する長野市立博物館では、長野盆地の歴史と生活をテーマに出土品や資料を展示。プラネタリウムも併設されている。

川中島の戦いの特別企画展も行われる。
(平成19年3月24日[土]〜12月16日[日])



高遠城(伊那市高遠町)
勘助曲輪の跡が残る武田ゆかりの城。由布姫の産んだ勝頼が城主となり、のち信玄の五男仁科五郎盛信が織田軍と戦い壮絶な死を遂げた。現在は1500本以上の「天下第一の桜」が咲き誇る美しい公園となっている。国史跡。なお、優秀な人材を輩出した進徳館や中村不折、池上秀畝、江崎孝坪等の作品、高遠出身の画家原田政雄のコレクション668点を展示する信州高遠美術館も隣接している。


建福寺・由布姫の墓(伊那市高遠町)
臨済宗大宝山建福寺は永禄五年高遠城主となった武田勝頼、後の城主保科氏の菩提寺とされた。また、勝頼の生母「諏訪御料人」(由布姫)は勝頼が高遠城主となった時高遠に移りこの地で逝去、この寺に葬られている。

この寺には、江戸期高遠の石工を代表する守屋貞治、渋谷藤兵衛等による数多くの石仏がある。



信玄塚(信玄公の宝篋印塔)(根羽村)

信玄公は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略の後、鳳来寺にて肺肝の療養をしていたが、病状が思わしくなく、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中元亀4年(1573)4月12日、53歳にて、ここ”ねばね”の上村において他界された。(「甲陽軍鑑」より)

その折風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。根羽村史跡信玄塚はこれより下方五十メートルの所に有る。

寛文年間(1661〜1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し供養のため、この宝篋印塔を建立した。降って宝歴(1751〜1764)の頃、横旗・中野・砦の三部落の人々によって武田神社として祀られた。

この宝篋印塔は、昭和28年池上年氏の鑑定により、室町時代末期の型式をそなえ、城主・大名級のものであるとされている。(根羽村教育委員会)



長岳寺・信玄公供養灰塚(阿智村)
長岳寺は、武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺。信玄公は野田城攻めの最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の里、駒場の山中で落命。享年53歳。

信玄公の義理の兄弟、下条家出身の六世裕教法印が長岳寺の住職を務めていた関係で信玄公の遺骸が長岳寺に運び入れられたが、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰った。その後、長岳寺を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下条伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られた。

昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立された。

信玄使用の兜の前立て2種「鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付」大日の丸練革製朱塗」が寺宝として残っている。



真理姫の墓(木曽町)
真理姫は、木曽家十九代義昌の夫人である。夫人は甲斐の武田晴信(信玄)の三女で、勝頼の妹でもあるが、戦国の世に生まれ、数奇な一生を過ごし、この地で亡くなっている。

●弘治元年(1555)武田晴信は、木曽へ侵攻し木曽義康(十八代)は、利あらず降伏する。晴信はこれを許し、当時十六才の義昌に、幼少六才の三女真理姫をめとわせて、木曽氏を武田一門の親族衆に加えた。これ以来真理姫は木曽義昌夫人となる。

●天正元年(1573)晴信卒し、勝頼の代となる。

●天正三年(1575)勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗し、武田氏の勢力俄に衰える。

●天正十年(1582)一月、夫人真理姫は義昌離反を勝頼に内報する。勝頼大いに怒り木曽へ武将を派遣し攻めるも、義昌これを鳥居峠で破る。二月には勝頼自身出兵し、再び木曽。織田連合軍に敗れ去る。ついで甲斐を攻略され、部下将兵も離反し勝頼天目山で自刃し、武田氏ついに亡ぶ。

●天正十八年(1590)木曽は豊臣秀吉領となり、木曽氏は下総網戸へ、わずか一万石の領主として移封された。

●慶長元年(1596)義昌の長子義利(二十代)は、暗愚のため、木曽家は家康により没収、お取潰しとなる。

●夫人真理姫は、三男三女の母となっていたが、末子善通(義一)をつれ、三岳村野口の上村作右衛門に身をよせ、隠棲しながらも、木曽谷の士豪にはかり、木曽家再興を念願したが、時代の流れは大きく変わり、果たせなかった。

●正保四年(1647)7月7日真理姫は、九十八才の長い一生をこの地で終えたと伝えられている。