天文二十四年(1555)甲斐の武田信玄は再度木曽を攻略しようと、自ら兵数百を率いて鳥居峠を越え薮原に出陣する。迎える木曽勢は地形険峻天然の要害を利して戦い持久戦となったが、同年八月、十八代義康は木曽の安全を計り和議を申し出る。
信玄はその和睦を大いに喜び、木曽家は源氏の正統高家であることもあり、息女万里姫を十九代義昌公のもとに嫁がせて親子の縁を結ぶ。
天正元年(1573)四月十二日、信玄は伊那駒場にて享年五十三才で病没する。
義昌は奥方万里姫と共に、父信玄を弔うため、墓所に遺品を埋め五輪の塔を建立して廟所とし、毎年旧七月十二日、二百把の明松を献して供養を行うこととした。
塔は一石五輪で七月十二日の文字が判読出来る。