'07信州キャンペーン 「信州・風林火山」
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「風林火山」インフォメーション
川中島エリア
諸角豊後守の墓(長野市)

諸角豊後守虎定は信玄の曾祖父・信昌の六男と伝えられ、八十一歳の高齢で川中島合戦に参戦したが、奮戦むなしく戦死。副将・信繁が討死したことを知り、激怒のあまり僅かな手勢で敵陣に突入していったという。地元では「もろずみさん」と呼ばれ親しまれている。

2007/03/11
妻女山[さいじょざん](長野市)

第四回川中島の戦いの際、謙信が本陣を構えて海津城の動向をとらえた場所です。

海津城から立ち昇る炊事の煙を見て、謙信は山本勘助の「啄木鳥の戦法」を見破ったとされています。

2007/02/06
茶臼山(長野市)

川中島決戦で、信玄が甲斐から出陣して最初に本陣を置いたのがここ茶臼山。現在は、茶臼山動物園などがあり、ファミリーに人気のスポットです。

2007/02/06
雨宮の渡し[あめのみやのわたし](千曲市)

第四回目の戦いの際、海津城から上る炊事の煙の数から、奇襲を察知した上杉謙信は、夜半過ぎに「雨宮の渡し」を越え、霧の中密かに武田軍に近づきました。

渡しがあったとされる場所は現在公園として整備され「鞭声粛々夜河を渡る…」の頼山陽の石碑とともに、住時をしのばせています。

2007/02/06
典廐寺[てんきゅうじ](長野市)

信玄の弟である典廐信繁は、川中島で命を落としました。典廐を葬った塚を典廐塚というようになり、後に典廐寺と名を改め、両軍の戦死者を弔いました。

火縄銃などの資料も展示されています。

2007/02/06
胴合橋[どあいばし](長野市)

第四次川中島の合戦で討ち死にした山本勘助の首を、家来が敵の手から奪い取り、胴と首をつなぎ合わせた場所とされています。

2007/02/06
山本勘助の墓(長野市)

信玄の天下取りを夢見ながら川中島に散った天才軍師、山本勘助。

法名の山本道鬼居士と記された墓は千曲川の堤防の下、古戦場一帯を見渡せる場所に建てられています。

2007/02/06
信州柴阿弥陀堂(長野市)

親鸞聖人真筆「十字名号」を本尊として文明年間に開基され、川中島の戦いの際信玄が武運長久を祈願するとともに堂を改築、善光寺如来御分身仏を奉安して両軍の戦死者を祀り、謙信も家臣を遣わし礼拝しました。

昭和初期の千曲川築堤により現在地に移築されています。

2007/02/06
勘助宮跡地(長野市)

「啄木鳥の戦法」失敗の責任を感じ、敵陣に身を投じていった勘助の最後は壮絶であったと伝えられています。ここに建っていた真木神社を後に勘助宮と呼ぶようになりました。

現在は、長野オリンピックスタジアムがある南長野運動公園の南西に石碑が建っています。

2007/02/06
十王堂(長野市)

川中島合戦の戦死者とこの一帯で犠牲になった村人の屍を集め、霊を弔ったと伝えられま
す。

後にお堂を建て、本尊阿弥陀如来と十王尊を安置したといわれます。

2007/02/06
明徳寺[高坂弾正の墓](長野市)

読みは「めいとくじ」。武田二十四将のひとり、高坂弾正(こうさか・だんじょう)が再興した寺です。本堂の裏には「蛙合戦」で知られる池。

また、ここには第二次大戦中、硫黄島で散った地元松代出身の栗林忠道中将の墓もあります。

2007/02/06
屋代城(千曲市)

武田晴信を武力で2度までも打ち破った村上義清でしたが、真田幸隆による「砥石城」乗っ取りに続いて、一族とされた屋代氏、塩崎氏の寝返りが、最終的に義清に葛尾城脱出を決意させたと言われています。

つまり、見方によっては屋代氏を「村上義清の喉元に刃を当て、川中島の戦いの引き金を引いた武将」とも言うことができるかと思いますが、この屋代氏の居城は現在のしなの鉄道屋代駅東側の山上にあります。(武田寝返り後、屋代氏は荒砥城に移っています)

屋代氏は村上氏に仕えたあと、武田方に寝返り、武田氏滅亡後は上杉、徳川とその主を代えた武将でしたが、そうした先を見越した機転・先見性があったせいか、家は徳川の旗本として幕末まで存続し、現在も子孫の方が国内に暮らしていらっしゃいます。

2007/01/10
海津城(松代城)跡(長野市)

信玄が北信濃への最前線基地として山本勘助に命じて築かせた深い城。それまでの山城にかわり、他の武将に先駆けて平野部に築いた平城で、甲州流築城技術を用いたとされる。城の西を流れる千曲川の水運を意識して堀とし、その自然堤防上に本丸と二の丸を築く。自然の地形を巧みに利用した堅固な造りになっている。

初代城将は高坂弾正。築城当時は「海津城」と呼ばれていたが、関ヶ原の戦いの前に当時の城主森忠政が「待城」と改めた。その後、松平忠輝が「松城」と改め、さらに真田三代自藩主幸道のときに「松代城」に改められたという。平成7年からの整備工事で太鼓門や北不明門などが復元、かつての姿がよみがえった。本丸跡の石垣に上がると、謙信が陣を張った妻女山がよく見える。桜の名所としても有名。

2007/01/06
八幡原史跡公園(長野市)

5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦い。永禄4年の戦いの舞台になったのが八幡原。第4回目の戦いが最も激しく、山本勘助、武田信繁などが戦死している。史跡公園の松林の中には静かに八幡社がたたずみ、境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像や三太刀七太刀の碑、両軍の戦死者を葬った首塚などがある。

公園を囲むように桜が植えられ、花の時期は見事。芝生広場や池などが整備されて子どもたちの格好の遊び場ともなっている。隣接する長野市立博物館では、長野盆地の歴史と生活をテーマに出土品や資料を展示。プラネタリウムも併設されている。

川中島の戦いの特別企画展も行われる。
(平成19年3月24日[土]~12月16日[日])
詳しくはこちらから

2007/01/06