'07信州キャンペーン 「信州・風林火山」
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北信濃エリア
隠れ石(飯山市)

謙信が武田軍の追っ手から逃れるため、身を隠したと言われている。

2007/03/13
綱切橋(飯山市)

越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は拾年にわたる争を一挙に決しようと永禄四年九月拾日、川中島に相対した。世に言う川中島の大合戦である。

戦記によるとこの戦は前半は上杉方の優勢、後半は武田方のはさみうちにあって上杉方の不利と伝えられている。乱軍のうちに散りぢりになった上杉方は態勢を立て直すいとまもなく敗走した。

大将謙信も主従わずかに数騎高井の高社山を左に見て漸く千曲川安田の渡しにさしかかった。

謙信は日頃信仰する小菅神社に入ろうとしたが里人の忠告にしたがって渡し舟に乗って千曲川を渡った。この時、川西に張り渡した渡し綱を切って落とし、追っ手の追跡をのがれて事なく春日山に帰りつくことができたのである。

この時以来この渡しを綱切りの渡しと呼ぶようになったと言う。

綱切橋は川中島戦史をいろどる綱切りの渡しあとである。(飯山市)

2007/03/11
宇佐美定行の墓(信濃町)

長尾一族の長尾政景は新潟県魚沼郡坂戸城主であった。謙信二十二才の時、一度謀反を起こしたが謙信はただちにこれを征服した。

然し政景が勇気もあり、政治的手腕もあったので処分しなかったばかりか、後に姉と結婚させ其の子景勝を自分の養子にした。

謙信がこれほど信頼している政景だったが、武田信玄と通じて再び謀反を企てているとの噂が謙信の耳にも入った。このことを知った宇佐美定行は、もし政景が謀反を起こせば春日山の団結も危うくなるし、また謙信が政景を殺せと命ずるようなことがあれば、肉親が殺し合う不徳の大将として諸将の信頼を失うことになり、何れにしても上杉家にとっては、由々しき大事であると考え、遂に一策を案じ永禄七年(1564)定行は政景を野尻湖の船遊びに招じた。

定行は政景に「貴殿は信玄と通じ、謀反を企てておるとの噂が謙信公の耳に入っている」と話し、二心なきことを殿に披瀝して身の潔白を証してはといさめたが、政景この諌言に耳をかそうとしなかったため定行は政景の腰帯に抱き付き共に野尻湖に沈み我が身を犠牲にして上杉家の安泰を計った。時に政景は三十九才、定行は七十六才であった。

後にこれを知った謙信公は定行の忠死に感激して宇佐美定行の霊をとむらうため、その具足を埋め、謙信自ら経塚を立て、丁重にとむらったのが後世墓所と口で伝えられてきたものである。(信濃町・野尻湖観光協会)

2007/03/11
小菅神社(飯山市)

役小角が創建したと伝えられる修験場。戸隠、飯綱と共に北信三大修験場として栄えました。弘治三(一五五七)年、上杉謙信が戦に勝ったら寺領を寄進すると願文を捧げました。

焼失を免れた奥社は国重要文化財です。

2007/02/06
富倉峠[とみくらとうげ](飯山市)

越後・春日山城から川中島に出陣する際、上杉軍が使用したとされる峠。謙信は一気に戦場に向かわず、まず飯山城に入って万事を調えました。

2007/02/06
替佐城址[かえさじょうし](中野市)

千曲川をはさんで建てられた壁田城、替佐城の二つの城は、武田軍の最前線拠点として互いに連携しあい、上杉勢を大いに悩ませました。

2007/02/06
壁田城址[へきだじょうし](中野市)

壁田城は、千曲川をはさんで建てられた替佐城とともに武田軍の最前線拠点として互いに連携しあい、上杉勢を大いに悩ませました。

2007/02/06
高梨氏城跡〔居館・山城〕(中野市)

山麓の緩やかな扇状地に築かれた高梨氏の本拠。中野小舘と呼ばれ、長野県の指定史跡として発掘・整備され、「高梨館跡公園」となっています。土塁や堀、建物跡、井戸跡、石で造られた水路(側面は石、床は土)、そして庭園などがほぼそのまま残されています。

2007/02/06
野尻湖城跡

永禄七(一五六四)年、信玄は謙信の関東出兵に乗じ、越後国境の野尻湖城まで攻め上がります。謙信はすかさず城を奪還。その勢いで川中島に進軍し、塩崎で対峙しました。しかし両軍一戦も交えることなく撤退。これが最後の川中島の戦いとなりました。

2007/02/06
牧之島城跡(信州新町)

犀川の断崖上に香坂氏が築いた牧城を、信玄が攻略後に山本勘助の甲州流築城術によって、馬場信房に縄張りをさせて牧之島城としました。

2007/02/06
旭山城跡(長野市)

善光寺の北西、裾花川を挟んで上杉軍の葛山城跡と向かい合い、たびたび両軍による城の争奪戦が繰り広げられました。

北信濃の有力者であった善光寺別当の栗田鶴寿が立てこもり、信玄が援軍と鉄砲三百丁を送り届けたとされています。

2007/02/06
葛山城跡〔かつらやまじょうあと〕(長野市)

信玄の旭山城に対する向城として謙信が整備・拡大を行いました。

弘治三年に信玄の命を受けた馬場氏によって落城し、現在、城があった山頂は見晴らしの良い公園になっています。

2007/02/06
謙信物見の岩(長野市)

善光寺の裏手、大峰城へと続く遊歩道の途中に謙信が武田軍の動きを見張るために使ったといわれる巨石がのこっています。

2007/02/06
武水別神社[たけみずわけじんじゃ](千曲市)

平安中期の延喜式にも登場する大社です。

弘治三(一五五七)年、武田軍との合戦を前にした謙信が信玄討伐の加護を祈った願文を奉納したと伝えられています。

2007/02/06
飯縄大権現(長野市)

飯綱山に祀られている飯縄大権現は、不動明王の化身とされ、戦国大名の守護神。

謙信は兜の前立てに飯縄明神像を使い、信玄も持仏として身につけていたと言われています。

2007/02/06
戸隠神社(長野市)

平安時代から修験道の霊場として都にまで名を馳せ、戦国時代には甲越両軍の争乱に巻き込まれました。

信玄が戦勝祈願をしたといわれる中社には、信玄の願文などが残されています。奥社へ続く参道の杉並木は圧巻です。

2007/02/06
飯山城址(飯山市)

謙信が川中島合戦の拠点として築城。階段式に郭を配した「後堅固の城」で、12年間にわたる合戦でも落ちることはなかった。今は石垣が残る城址公園になり、桜の名所になっている。小京都ともいわれる飯山は寺の多い町。城址公園には寺めぐり遊歩道が整備され、しっとりした風情が楽しめる。

2007/01/06
善光寺(長野市)

古くからの庶民信仰の寺。天文24年の第二回川中島合戦の後、信玄は本尊阿弥陀如来を甲斐へ、謙信は尊像や仏具を越後へ移した。武田氏滅亡後、本尊は織田信長、徳川家康、豊臣秀吉と渡り、42年後に信濃に戻ったという。寺には、信玄・謙信の位牌が並んで納められている。

境内横の城山公園は、川中島の戦いの折、上杉謙信が本陣とした横山城にちなむ名前。宿坊が並ぶ小道の散策や城山公園内の桜、信濃美術館東山魁夷館もおすすめ。

2007/01/06