津金寺は永禄4年(1561年)川中島の合戦の際、住職善海をはじめ衆徒が武田信玄を応援したことから、旧領の地所を併せて寺領1000石の朱印状が与えられ、信玄が比叡山正覚院に帰依するにあたり、再び天台宗の寺院となりました。
当寺の寺紋は武田菱であり、改宗に関する文書など信玄の文書2通が、今も寺宝として保存されています。また、仁王門の向いには、信玄が川中島の合戦の時、武運長久を祈願し兜をかけたとされる松とそのそばに腰を下ろして休んだとされる石があります。
松原諏訪神社は信玄が戦勝祈願の願文をおさめた。境内には落合新善光寺(佐久市)にあったものを、武田軍が甲府へ運ぶ途中、ここに寄進した梵鐘がある。この鐘を屋根の下に置くと、火事の難に遭うというところから、野ざらしにされ、以来「野ざらしの鐘」と称された。
壮絶を極めた信玄との攻防に敗れた志賀城主・笠原新三郎清繁の首塚が志賀城跡を望む水田の中に静に佇んでいます。
小諸城築城の時に山本勘助が研磨し、この石に向かって朝夕静鑑したと伝えられている。現在、本丸跡にある。
若き信玄が初陣を飾ったといわれる、佐久の豪族平賀源心の城。
諏訪、村上、小笠原らの支援により形勢不利になった父・信虎から、撤退時のしんがりを任された信玄が奇襲をかけて城を落としたことで知られています。
佐久地方の要衝に築かれた、佐久の豪族大井氏の城。天文十五(一五四六)年、信玄は大井貞清を兵糧攻めにして降伏させました。
信玄の重臣、板垣信方を先陣として攻め込む武田軍を相手に、城主・小田井又五郎が奮戦するも武運つたなく、城兵全員が討ち取られてしまいました。
天文十六(一五四七)年、信玄と佐久地方最後の砦となる志賀城主・笠原清繁との戦いは壮絶を極めたといわれます。後詰めを頼んだ上野国の上杉憲政は三千の軍勢を送りましたが、信玄は志賀城を包囲させたまま、上杉軍を迎撃。小田井原でこれを破り、討ち取った三千もの首を志賀城の周囲に架けて威嚇したと伝えられます。
清繁の首塚が城の近くの水田に残されています。
信玄のあつい庇護を受けた名刹。信濃出兵の際には戦勝祈願をしたといわれています。
山門、楼門、鐘楼などが配された寺には、武田家関係の古文書が残されているほか、信玄の遺骨と短刀などが納められた霊廟があります。
佐久地方の総社で古来より武将の崇敬を集めた。上州攻略の際、信玄が奉納した戦勝祈願文が残る。境内の御魂代石は耳を当てると諏訪湖の水音が聞こえるという。
白鶴城、酔月城の美しい別名をもつ小諸城は、信玄が山本勘助と馬場信房に命じて築かせ、武田氏滅亡後は仙石秀久によって完成された。現在は、懐古園と呼ばれ、園内には城ゆかりの武具や古文書を展示した徴古館、藤村記念館があるほか、小諸義塾記念館、郷土博物館、動物園、遊園地などの施設が点在する。天守や本丸跡などの石積みが残り、懐古神社横の鏡石は山本勘助愛用と伝えられる。入り口の三の門にかかる額の字は徳川家達の筆。詩碑や句碑も多く、桜の名所でもある。