'07信州キャンペーン 「信州・風林火山」
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下伊那エリア
兵越峠(飯田市)

国盗り合戦の国境

此の峠を兵越峠と名づけたのは武田信玄が、上洛を志し、元亀三年(1573)十月三日(新暦十一月十八日)約3万5千の大軍を率いて信濃国遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠を越したと言われている。

毎年十月、信州軍(長野県飯田市/旧南信濃村)と遠州軍(静岡県浜松市/旧水窪町)に分かれて「国境」をかけて綱引きで対決する「峠の国盗り綱引き合戦」が行われています。

2007/03/13
信玄滝(飯田市)

戦乱収まらぬ元亀三年(1573)甲斐の雄、武田信玄は三河攻めを行う際、この地を訪れた。

豪快に水を壺に叩き落としている滝を見ていると轟音とともに繁吹が信玄の身を覆って、顔を洗おうとした時、水面は鏡のように澄み渡り信玄の顔がはっきり映った。

信玄は大変驚き「霊感身を震わせた」と言ったそうである。さっそく家来に命じて不動明王を建立させ、滝の守り神とした。

2007/03/13
ジタジタ峠(飯田市)

ジタジタ峠から神之峰城跡を望む

天文二十三年(1554)武田信玄の率いる武田軍は、小笠原氏の鈴岡城を攻め落とし、その勢いをもって下久堅の文永寺を焼き払い、竜東の雄、諏訪氏の流れの知久頼元の居城、神之峰攻略のためここに立った。武田の将、山本勘助は霧の晴れ間に床山城を眺め、この山城は水を断つことが一番と計略し、眼下の玉川に兵を出し、城兵が水汲みに来たらと待ち受けていたが、五日たち六日たっても一人として城兵は現れなかった。

そうこうしていると、ある日の午後、神之峰の出丸の岩頭に兵が集まって馬を洗っている姿が眺められた。実は城兵達は白米を使って馬を洗っているように見せたのを武田軍は水で洗っていると思ったのである。これ程場内には水がたくさんあるのか、それなら今までの兵略は無駄であったのかと思い、さすがの智将山本勘助も、ジダジダを踏んで口惜しがったという。そのためこの地をジダジダ峠と称し、草木も育たぬ所となったという。(飯田市・上久堅観光協会)

2007/03/13
山本勘助物見の松(飯田市)

武田軍が知久頼元の居城、神之峰城攻めを行った際、武田の軍師山本勘助が城内の様子を伺うために登った松と言われている。現在の松は近年植え替えられたもの。

2007/03/13
勝頼公の腰かけ石(平谷村)

天正三年(1573)五月、武田勝頼公は大軍を率いて、三州街道を南下、織田・徳川の連合軍と、長篠の設楽原で戦い、壊滅的な打撃を受けた。

そして、ただ一騎落ちてくるところを坂部の郷士、熊谷治部介直定が案内し、そのころまで三河と信濃の国境であった、この赤坂にたどりつく。

この石に腰をかけ、一休みしている処へ、後を追って、伯父の信重公と初鹿伝右衛門、小山弥助、土屋宗蔵等が駆けつけた。

一方、程近い滝の澤に、大老高坂弾正忠殿が、甲府より三百騎を率いて到着したと聞き、心身とも、ゆるりと腰をかけたという。

2007/03/13
和田城(飯田市)

本城は遠山氏三代の本拠をもった遠山景広が築城した城で西南より南に続く平場で前面は遠山川を見下ろし伊那山脈の南端をなす。後面は赤石連峰があり、四方を山で囲む遠山谷の中でもっとも広い和田平野の中心に位置している。

2007/03/13
神之峰城跡[かんのみねじょうあと](飯田市)

諏訪家の分流で下伊那に勢力を張った知久頼元の居城でしたが、天文二十三(一五四四)年、信玄の攻略を防ぐことかなわずに落城しました。

2007/02/06
松尾城跡(飯田市)

城主の小笠原信嶺は、林城の長時、鈴岡城の信定と同族の小笠原三家の一人。天文二十三(一五四四)年に信玄の攻撃を受けて降服しました。

2007/02/06
鈴岡城跡(飯田市)

松尾城を治める同族の信嶺が信玄に従ったのに対し、鈴岡城の小笠原信定は信玄に決戦を挑んで敗れました。以後、城は松尾の支城として用いられ、天正十八(一五九〇)年に廃城になりました。

2007/02/06
大島城跡・台城公園(松川町)

平安末期、船山城主片桐為行の第8子・大島八郎宗綱が分地し、大島郷を領した。その後、大島氏が代々この地を領し、大島城を始め北の城や沼の城を築いた。元亀2年(1570)武田信玄が飯田城代秋山信友に命じ、上洛の拠点とするため城を大修築した。天正10年(1582)織田信長が伊那に侵攻し飯田城を落としたため、武田勢は伊那の勢力を大島城に集結させたが、守将武田信康は大島城を捨てて甲斐に敗走したため落城した。

現在は都市計画公園として整備されて、4月下旬から5月中旬には、大小紅白紫のキリシマツツジが園内に5000本程咲きほこり、5月のゴールデンウィーク中には「台城つつじまつり」が盛大に行われます。


問い合わせ先
 松川町役場産業振興課内
 松川町観光協会 
 電 話  0265-36-7027

2007/01/31
信玄塚(信玄公の宝篋印塔)(根羽村)

信玄公は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略の後、鳳来寺にて肺肝の療養をしていたが、病状が思わしくなく、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中元亀4年(1573)4月12日、53歳にて、ここ”ねばね”の上村において他界された。(「甲陽軍鑑」より)

その折風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。根羽村史跡信玄塚はこれより下方五十メートルの所に有る。

寛文年間(1661~1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し供養のため、この宝篋印塔を建立した。降って宝歴(1751~1764)の頃、横旗・中野・砦の三部落の人々によって武田神社として祀られた。

この宝篋印塔は、昭和28年池上年氏の鑑定により、室町時代末期の型式をそなえ、城主・大名級のものであるとされている。(根羽村教育委員会)

2007/01/06
長岳寺・信玄公供養灰塚(阿智村)

長岳寺は、武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺。信玄公は野田城攻めの最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の里、駒場の山中で落命。享年53歳。

信玄公の義理の兄弟、下条家出身の六世裕教法印が長岳寺の住職を務めていた関係で信玄公の遺骸が長岳寺に運び入れられたが、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰った。その後、長岳寺を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下条伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られた。

昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立された。

信玄使用の兜の前立て2種「鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付」大日の丸練革製朱塗」が寺宝として残っている。

2007/01/06