'07信州キャンペーン 「信州・風林火山」
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供養塔・墓
長福寺・武田信玄公墓碑(木曽町)

天文二十四年(1555)甲斐の武田信玄は再度木曽を攻略しようと、自ら兵数百を率いて鳥居峠を越え薮原に出陣する。迎える木曽勢は地形険峻天然の要害を利して戦い持久戦となったが、同年八月、十八代義康は木曽の安全を計り和議を申し出る。

信玄はその和睦を大いに喜び、木曽家は源氏の正統高家であることもあり、息女万里姫を十九代義昌公のもとに嫁がせて親子の縁を結ぶ。

天正元年(1573)四月十二日、信玄は伊那駒場にて享年五十三才で病没する。

義昌は奥方万里姫と共に、父信玄を弔うため、墓所に遺品を埋め五輪の塔を建立して廟所とし、毎年旧七月十二日、二百把の明松を献して供養を行うこととした。

塔は一石五輪で七月十二日の文字が判読出来る。

2007/03/13
武田信虎の墓(伊那市)

信玄の父、武田信虎は嫡子信玄と家臣団に依って駿河に追放された後、諸国を遍歴し、永禄九年七十二歳の時、高遠城主武田勝頼の代に高遠に来た。天正二年三月五日、城主武田信綱の時、高遠城にて八十一歳の生涯を閉じ、遺骸は法幢院と甲斐の大泉寺に葬られた。墓は今、桂泉院の裏山にあり古い蘭塔である。

2007/03/13
笠原新三郎の首塚(佐久市)

壮絶を極めた信玄との攻防に敗れた志賀城主・笠原新三郎清繁の首塚が志賀城跡を望む水田の中に静に佇んでいます。

2007/03/13
無名戦士の墓(上田市)

付近の水田の畦に散在していたものを集めたもの

2007/03/13
屋代源吾の墓(上田市)

天文十七年(1548)、甲斐の武田晴信(信玄)と信濃の村上義清が上田原の地で対決した上田原の戦いは、村上軍の攻撃により武田軍の武将板垣信方、甘利虎泰らが戦死し、大将の晴信も傷を負い武田軍が大敗した。村上軍も屋代源吾、小島権兵衛、雨宮刑部などの重臣が、この戦いで戦死したと伝えられている。

屋代源吾は、屋代城主であった屋代政国の長子であるが、この地で戦死したと伝えられる。

2007/03/13
雨宮刑部の墓(上田市)

天文十七年(1548)二月、甲斐の武田晴信(後の信玄)は、大軍を率いて、小県郡に攻め込んだ。地元葛尾城主村上義清はこれを迎え討ち、同月十四日この地で激しい合戦が行われた。この戦いで武田軍は破れ、重臣板垣信方、甘利虎泰等が討死、晴信も傷を負ったが、村上軍も雨宮刑部、屋代源吾、小島権兵衛等が討死し、決定的な勝利を得ることができなかった。

2007/03/13
小島権兵衛の墓(上田市)

天文十七年(1548)二月、甲斐の武田晴信(後の信玄)は、大軍を率いて、小県郡に攻め込んだ。地元葛尾城主村上義清はこれを迎え討ち、同月十四日この地で激しい合戦が行われた。この戦いで武田軍は破れ、重臣板垣信方、甘利虎泰等が討死、晴信も傷を負ったが、村上軍も雨宮刑部、屋代源吾、小島権兵衛等が討死し、決定的な勝利を得ることができなかった。

2007/03/13
宇佐美定行の墓(信濃町)

長尾一族の長尾政景は新潟県魚沼郡坂戸城主であった。謙信二十二才の時、一度謀反を起こしたが謙信はただちにこれを征服した。

然し政景が勇気もあり、政治的手腕もあったので処分しなかったばかりか、後に姉と結婚させ其の子景勝を自分の養子にした。

謙信がこれほど信頼している政景だったが、武田信玄と通じて再び謀反を企てているとの噂が謙信の耳にも入った。このことを知った宇佐美定行は、もし政景が謀反を起こせば春日山の団結も危うくなるし、また謙信が政景を殺せと命ずるようなことがあれば、肉親が殺し合う不徳の大将として諸将の信頼を失うことになり、何れにしても上杉家にとっては、由々しき大事であると考え、遂に一策を案じ永禄七年(1564)定行は政景を野尻湖の船遊びに招じた。

定行は政景に「貴殿は信玄と通じ、謀反を企てておるとの噂が謙信公の耳に入っている」と話し、二心なきことを殿に披瀝して身の潔白を証してはといさめたが、政景この諌言に耳をかそうとしなかったため定行は政景の腰帯に抱き付き共に野尻湖に沈み我が身を犠牲にして上杉家の安泰を計った。時に政景は三十九才、定行は七十六才であった。

後にこれを知った謙信公は定行の忠死に感激して宇佐美定行の霊をとむらうため、その具足を埋め、謙信自ら経塚を立て、丁重にとむらったのが後世墓所と口で伝えられてきたものである。(信濃町・野尻湖観光協会)

2007/03/11
諸角豊後守の墓(長野市)

諸角豊後守虎定は信玄の曾祖父・信昌の六男と伝えられ、八十一歳の高齢で川中島合戦に参戦したが、奮戦むなしく戦死。副将・信繁が討死したことを知り、激怒のあまり僅かな手勢で敵陣に突入していったという。地元では「もろずみさん」と呼ばれ親しまれている。

2007/03/11
桂泉院[けいせんいん](伊那市)

高遠湖を望む高台にある。勝頼の異母弟仁科盛信(信玄の五男)は仁科家の名跡を継ぎ、高遠城主をつとめていました。天正十年織田信長による武田氏討伐で没しました。(享年二十六歳)同院には位牌が安置されています。

2007/02/06
板垣信方の墓[いたがきのぶかたのはか](上田市)

信玄の重臣で勘助を庇護した板垣信方のお墓が板垣神社にあります。

2007/02/06
典廐寺[てんきゅうじ](長野市)

信玄の弟である典廐信繁は、川中島で命を落としました。典廐を葬った塚を典廐塚というようになり、後に典廐寺と名を改め、両軍の戦死者を弔いました。

火縄銃などの資料も展示されています。

2007/02/06
山本勘助の墓(長野市)

信玄の天下取りを夢見ながら川中島に散った天才軍師、山本勘助。

法名の山本道鬼居士と記された墓は千曲川の堤防の下、古戦場一帯を見渡せる場所に建てられています。

2007/02/06
信州柴阿弥陀堂(長野市)

親鸞聖人真筆「十字名号」を本尊として文明年間に開基され、川中島の戦いの際信玄が武運長久を祈願するとともに堂を改築、善光寺如来御分身仏を奉安して両軍の戦死者を祀り、謙信も家臣を遣わし礼拝しました。

昭和初期の千曲川築堤により現在地に移築されています。

2007/02/06
十王堂(長野市)

川中島合戦の戦死者とこの一帯で犠牲になった村人の屍を集め、霊を弔ったと伝えられま
す。

後にお堂を建て、本尊阿弥陀如来と十王尊を安置したといわれます。

2007/02/06
明徳寺[高坂弾正の墓](長野市)

読みは「めいとくじ」。武田二十四将のひとり、高坂弾正(こうさか・だんじょう)が再興した寺です。本堂の裏には「蛙合戦」で知られる池。

また、ここには第二次大戦中、硫黄島で散った地元松代出身の栗林忠道中将の墓もあります。

2007/02/06
大通寺・真理姫の供養塔(木曽町)

大通寺は慶長四(一六〇一)年、真理姫を妻に迎えた木曽義昌の重臣・山村良勝によって創建されました。

木曽家の屋敷跡に建てられており、境内には真理姫の供養塔がのこされています。

2007/02/06
村上義清公供養塔(坂城町)

村上義清公は、川中島合戦後、越後に移り、73歳で没したと伝えられている。義清公の供養塔は、江戸時代、坂木代官長谷川安左衛門らによって建立されている。

しなの鉄道坂城駅下車 徒歩10分。バスの駐車は困難。

2007/01/10
小坂観音院・由布姫の供養塔(岡谷市)

信玄の側室、勝頼の母・由布姫の供養塔が境内に建つ真言宗のお寺。南信八名所、諏訪八景に数えられている。ご本尊は十一面観世音菩薩。近くの小坂公園はあじさいの名所でもあり、諏訪湖や八ヶ岳連峰が一望できる。

2007/01/06
建福寺・由布姫の墓(伊那市高遠町)

臨済宗大宝山建福寺は永禄五年高遠城主となった武田勝頼、後の城主保科氏の菩提寺とされた。また、勝頼の生母「諏訪御料人」(由布姫)は勝頼が高遠城主となった時高遠に移りこの地で逝去、この寺に葬られている。

この寺には、江戸期高遠の石工を代表する守屋貞治、渋谷藤兵衛等による数多くの石仏がある。

2007/01/06
信玄塚(信玄公の宝篋印塔)(根羽村)

信玄公は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略の後、鳳来寺にて肺肝の療養をしていたが、病状が思わしくなく、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中元亀4年(1573)4月12日、53歳にて、ここ”ねばね”の上村において他界された。(「甲陽軍鑑」より)

その折風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。根羽村史跡信玄塚はこれより下方五十メートルの所に有る。

寛文年間(1661~1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し供養のため、この宝篋印塔を建立した。降って宝歴(1751~1764)の頃、横旗・中野・砦の三部落の人々によって武田神社として祀られた。

この宝篋印塔は、昭和28年池上年氏の鑑定により、室町時代末期の型式をそなえ、城主・大名級のものであるとされている。(根羽村教育委員会)

2007/01/06
長岳寺・信玄公供養灰塚(阿智村)

長岳寺は、武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺。信玄公は野田城攻めの最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の里、駒場の山中で落命。享年53歳。

信玄公の義理の兄弟、下条家出身の六世裕教法印が長岳寺の住職を務めていた関係で信玄公の遺骸が長岳寺に運び入れられたが、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰った。その後、長岳寺を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下条伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られた。

昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立された。

信玄使用の兜の前立て2種「鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付」大日の丸練革製朱塗」が寺宝として残っている。

2007/01/06
真理姫五輪の塔(木曽町)

真理姫は、木曽家十九代義昌の夫人である。夫人は甲斐の武田晴信(信玄)の三女で、勝頼の妹でもあるが、戦国の世に生まれ、数奇な一生を過ごし、この地で亡くなっている。

●弘治元年(1555)武田晴信は、木曽へ侵攻し木曽義康(十八代)は、利あらず降伏する。晴信はこれを許し、当時十六才の義昌に、幼少六才の三女真理姫をめとわせて、木曽氏を武田一門の親族衆に加えた。これ以来真理姫は木曽義昌夫人となる。

●天正元年(1573)晴信卒し、勝頼の代となる。

●天正三年(1575)勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗し、武田氏の勢力俄に衰える。

●天正十年(1582)一月、夫人真理姫は義昌離反を勝頼に内報する。勝頼大いに怒り木曽へ武将を派遣し攻めるも、義昌これを鳥居峠で破る。二月には勝頼自身出兵し、再び木曽。織田連合軍に敗れ去る。ついで甲斐を攻略され、部下将兵も離反し勝頼天目山で自刃し、武田氏ついに亡ぶ。

●天正十八年(1590)木曽は豊臣秀吉領となり、木曽氏は下総網戸へ、わずか一万石の領主として移封された。

●慶長元年(1596)義昌の長子義利(二十代)は、暗愚のため、木曽家は家康により没収、お取潰しとなる。

●夫人真理姫は、三男三女の母となっていたが、末子善通(義一)をつれ、三岳村野口の上村作右衛門に身をよせ、隠棲しながらも、木曽谷の士豪にはかり、木曽家再興を念願したが、時代の流れは大きく変わり、果たせなかった。

●正保四年(1647)7月7日真理姫は、九十八才の長い一生をこの地で終えたと伝えられている。

2007/01/06