'07信州キャンペーン 「信州・風林火山」
風林火山 史跡ガイド
諏訪大社上社本宮(諏訪市)
上原城跡(茅野市)
桑原城跡(諏訪市)
御射山社[みさやま](富士見町・原村)
安国寺古戦場跡(茅野市)
大門峠(茅野市)
杖突峠[つえつきとうげ](茅野市・伊那市)
棒道[ぼうみち](茅野市・富士見町・原村)
お茶清水(茅野市)
御座岩[ございわ](茅野市)
福与城址(箕輪町)
桂泉院[けいせんいん](伊那市)
神之峰城跡[かんのみねじょうあと](飯田市)
松尾城跡(飯田市)
鈴岡城跡(飯田市)
林城跡(松本市)
仁科神明宮[にしなしんめいぐう](大町市)
塩の道
海ノ口城跡[うんのくちじょうあと](南牧村)
内山城跡(佐久市)
小田井城址[おたいじょうし](御代田町)
志賀城跡(佐久市)
龍雲寺(佐久市)
砥石城跡[といしじょうあと](上田市)
塩田城跡(上田市)
替佐城址[かえさじょうし](中野市)
壁田城址[へきだじょうし](中野市)
野尻湖城跡
牧之島城跡(信州新町)
旭山城跡(長野市)
葛山城跡〔かつらやまじょうあと〕(長野市)
戸隠神社(長野市)
茶臼山(長野市)
典廐寺[てんきゅうじ](長野市)
胴合橋[どあいばし](長野市)
山本勘助の墓(長野市)
信州柴阿弥陀堂(長野市)
勘助宮跡地(長野市)
十王堂(長野市)
明徳寺[高坂弾正の墓](長野市)
大通寺・真理姫の供養塔(木曽町)
大島城跡・台城公園(松川町)
屋代城(千曲市)
耕雲寺(坂城町)
高島城(諏訪市)
小坂観音院・由布姫の供養塔(岡谷市)
塩尻峠(塩尻市)
新海三社神社(佐久市)
小諸城址・懐古園[かいこえん](小諸市)
松本城[深志城](松本市)
平倉城跡[小谷城跡](小谷村)
上田原古戦場碑(上田市)
生島足島神社(上田市)
荒砥城跡(千曲市)
善光寺(長野市)
海津城(松代城)跡(長野市)
八幡原史跡公園(長野市)
高遠城(伊那市高遠町)
建福寺・由布姫の墓(伊那市高遠町)
信玄塚(信玄公の宝篋印塔)(根羽村)
長岳寺・信玄公供養灰塚(阿智村)
真理姫五輪の塔(木曽町)
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「風林火山」インフォメーション
武田方ゆかりの史跡
諏訪大社上社本宮(諏訪市)

全国に1万以上の摂社末社を持つ諏訪神社の総本社。古くから農耕や勝負、家内安全の神として信仰されています。諏訪湖の南に鎮座するのが上社本宮(諏訪市中洲)。前宮(茅野市宮川)は本宮の前身と伝えられ、諏訪盆地を望む景勝地にあります。

武田家とのつながりも深く、信玄は合戦のたび、「諏訪南宮上下大明神」と書いた幟を立てたり、また神社の祭事再興の具体的な指示を「信玄十一軸」として送るなどしました。

2007/03/13
上原城跡(茅野市)

諏訪地方を治めた諏訪氏の五代七十余年にわたっての居城。諏訪氏滅亡のあと、武田氏が信濃支配の拠点とするも、天正十年に廃城。現在は、主郭、土塁、二の郭などの遺構が残っています。県史跡。

2007/02/06
桑原城跡(諏訪市)

上原城の支城。信玄に上原城を追われた諏訪頼重が後詰めとして最後に逃れ、降伏した場所が桑原城でした。城跡は県史跡に指定されています。主郭からは諏訪盆地が一望できます。

2007/02/06
御射山社[みさやま](富士見町・原村)

諏訪大社上社に属する摂社。天文十一年(一五四二)年、諏訪頼重との戦いの際に、武田信玄がこの辺りに本陣を敷いたとされます。地元の人には、数え年二歳の厄除け祈願の明神様として親しまれています。

2007/02/06
安国寺古戦場跡(茅野市)

諏訪の覇権を賭け、高遠頼継と信玄が激突した舞台。七百人を超える被害者を出した高遠軍は、杖突峠を越えて伊那に敗走しました。

2007/02/06
大門峠(茅野市)

標高一四四三メートル、武田軍が川中島の戦いに向かった際に、この峠を往来しました。峠の北に位置する姫木平は、標木平とも呼ばれ、兵士たちの一刻の休息の場所だったようです。

2007/02/06
杖突峠[つえつきとうげ](茅野市・伊那市)

安国寺の戦いで逃げる頼継を追撃する際など、武田軍が伊那攻略に活用した軍用ルートのひとつ。諏訪盆地や八ヶ岳の眺望が楽しめます。

2007/02/06
棒道[ぼうみち](茅野市・富士見町・原村)

信玄が北信濃攻略のために開いたといわれる軍用道路で、八ヶ岳の麓を棒のようにまっすぐ抜けていることから、そう呼ばれました。

上・中・下の三本があったとも言われていますが、信玄が新しく開削し、真の意味で棒道と呼べるのは、上の道のみです。

「疾きこと風の如く」武田軍が甲府から佐久・川中島へ進軍できた秘密がここにあり、今でもその一部をたどることができます。

2007/02/06
お茶清水(茅野市)

その名のとおり、信玄はこの泉の水でお茶を飲んで一息ついたとされています。戦国武士の気分で、ここで一服していきませんか。

2007/02/06
御座岩[ございわ](茅野市)

信玄が北信濃の制覇をめざして大門峠を越える際、陣を張って戦略をめぐらした場所として伝わっています。

白樺湖北岸のほぼ中央から湖心に突き出した安山岩の岩塊です。

2007/02/06
福与城址(箕輪町)

諏訪氏一族、藤沢頼親の居城。天竜川の段丘を利用した堅固な城で、伊那谷攻略をめざす武田軍約二万人に対し、城主・藤原頼親は五十日間にわたり善戦しました。

2007/02/06
桂泉院[けいせんいん](伊那市)

高遠湖を望む高台にある。勝頼の異母弟仁科盛信(信玄の五男)は仁科家の名跡を継ぎ、高遠城主をつとめていました。天正十年織田信長による武田氏討伐で没しました。(享年二十六歳)同院には位牌が安置されています。

2007/02/06
神之峰城跡[かんのみねじょうあと](飯田市)

諏訪家の分流で下伊那に勢力を張った知久頼元の居城でしたが、天文二十三(一五四四)年、信玄の攻略を防ぐことかなわずに落城しました。

2007/02/06
松尾城跡(飯田市)

城主の小笠原信嶺は、林城の長時、鈴岡城の信定と同族の小笠原三家の一人。天文二十三(一五四四)年に信玄の攻撃を受けて降服しました。

2007/02/06
鈴岡城跡(飯田市)

松尾城を治める同族の信嶺が信玄に従ったのに対し、鈴岡城の小笠原信定は信玄に決戦を挑んで敗れました。以後、城は松尾の支城として用いられ、天正十八(一五九〇)年に廃城になりました。

2007/02/06
林城跡(松本市)

小笠原氏の本城。天文十九(一五五〇)年、長時が信玄に破れて敗走するまで、この勢力は二百年におよびました。武田氏によって廃城となりますが、大城、小城が一対となった遺構を見ることができます。

2007/02/06
仁科神明宮[にしなしんめいぐう](大町市)

日本最古の神明造りの建造物で、本殿、中門、釣屋は、国宝に指定されています。安曇野地方を治めた正統仁科氏を滅した後、名族を惜しんだ信玄が五男・盛信にその姓を継がせました。

2007/02/06
塩の道

松本から糸魚川を結ぶ120キロあまりの道は、いつの頃からか「塩の道・千国街道」と呼ばれるようになりました。謙信が川中島の合戦で宿敵信玄に、牛馬の隊列を整えて塩を送った『敵に塩を送る」という美談で知られるのもこの街道のことです。塩の道は古道として今でもいくつも残っています。

2007/02/06
海ノ口城跡[うんのくちじょうあと](南牧村)

若き信玄が初陣を飾ったといわれる、佐久の豪族平賀源心の城。

諏訪、村上、小笠原らの支援により形勢不利になった父・信虎から、撤退時のしんがりを任された信玄が奇襲をかけて城を落としたことで知られています。

2007/02/06
内山城跡(佐久市)

佐久地方の要衝に築かれた、佐久の豪族大井氏の城。天文十五(一五四六)年、信玄は大井貞清を兵糧攻めにして降伏させました。

2007/02/06
小田井城址[おたいじょうし](御代田町)

信玄の重臣、板垣信方を先陣として攻め込む武田軍を相手に、城主・小田井又五郎が奮戦するも武運つたなく、城兵全員が討ち取られてしまいました。

2007/02/06
志賀城跡(佐久市)

天文十六(一五四七)年、信玄と佐久地方最後の砦となる志賀城主・笠原清繁との戦いは壮絶を極めたといわれます。後詰めを頼んだ上野国の上杉憲政は三千の軍勢を送りましたが、信玄は志賀城を包囲させたまま、上杉軍を迎撃。小田井原でこれを破り、討ち取った三千もの首を志賀城の周囲に架けて威嚇したと伝えられます。

清繁の首塚が城の近くの水田に残されています。

2007/02/06
龍雲寺(佐久市)

信玄のあつい庇護を受けた名刹。信濃出兵の際には戦勝祈願をしたといわれています。

山門、楼門、鐘楼などが配された寺には、武田家関係の古文書が残されているほか、信玄の遺骨と短刀などが納められた霊廟があります。

2007/02/06
砥石城跡[といしじょうあと](上田市)

信玄の屈辱的敗戦の舞台は、そそり立つ岸壁上の山城でした。

城跡からは、上田市街と真田の町並みを一望できます。

2007/02/06
塩田城跡(上田市)

村上義清の最後の砦、そして信玄の信濃、越後侵攻の基地ともなった城です。

2007/02/06
替佐城址[かえさじょうし](中野市)

千曲川をはさんで建てられた壁田城、替佐城の二つの城は、武田軍の最前線拠点として互いに連携しあい、上杉勢を大いに悩ませました。

2007/02/06
壁田城址[へきだじょうし](中野市)

壁田城は、千曲川をはさんで建てられた替佐城とともに武田軍の最前線拠点として互いに連携しあい、上杉勢を大いに悩ませました。

2007/02/06
野尻湖城跡

永禄七(一五六四)年、信玄は謙信の関東出兵に乗じ、越後国境の野尻湖城まで攻め上がります。謙信はすかさず城を奪還。その勢いで川中島に進軍し、塩崎で対峙しました。しかし両軍一戦も交えることなく撤退。これが最後の川中島の戦いとなりました。

2007/02/06
牧之島城跡(信州新町)

犀川の断崖上に香坂氏が築いた牧城を、信玄が攻略後に山本勘助の甲州流築城術によって、馬場信房に縄張りをさせて牧之島城としました。

2007/02/06
旭山城跡(長野市)

善光寺の北西、裾花川を挟んで上杉軍の葛山城跡と向かい合い、たびたび両軍による城の争奪戦が繰り広げられました。

北信濃の有力者であった善光寺別当の栗田鶴寿が立てこもり、信玄が援軍と鉄砲三百丁を送り届けたとされています。

2007/02/06
葛山城跡〔かつらやまじょうあと〕(長野市)

信玄の旭山城に対する向城として謙信が整備・拡大を行いました。

弘治三年に信玄の命を受けた馬場氏によって落城し、現在、城があった山頂は見晴らしの良い公園になっています。

2007/02/06
戸隠神社(長野市)

平安時代から修験道の霊場として都にまで名を馳せ、戦国時代には甲越両軍の争乱に巻き込まれました。

信玄が戦勝祈願をしたといわれる中社には、信玄の願文などが残されています。奥社へ続く参道の杉並木は圧巻です。

2007/02/06
茶臼山(長野市)

川中島決戦で、信玄が甲斐から出陣して最初に本陣を置いたのがここ茶臼山。現在は、茶臼山動物園などがあり、ファミリーに人気のスポットです。

2007/02/06
典廐寺[てんきゅうじ](長野市)

信玄の弟である典廐信繁は、川中島で命を落としました。典廐を葬った塚を典廐塚というようになり、後に典廐寺と名を改め、両軍の戦死者を弔いました。

火縄銃などの資料も展示されています。

2007/02/06
胴合橋[どあいばし](長野市)

第四次川中島の合戦で討ち死にした山本勘助の首を、家来が敵の手から奪い取り、胴と首をつなぎ合わせた場所とされています。

2007/02/06
山本勘助の墓(長野市)

信玄の天下取りを夢見ながら川中島に散った天才軍師、山本勘助。

法名の山本道鬼居士と記された墓は千曲川の堤防の下、古戦場一帯を見渡せる場所に建てられています。

2007/02/06
信州柴阿弥陀堂(長野市)

親鸞聖人真筆「十字名号」を本尊として文明年間に開基され、川中島の戦いの際信玄が武運長久を祈願するとともに堂を改築、善光寺如来御分身仏を奉安して両軍の戦死者を祀り、謙信も家臣を遣わし礼拝しました。

昭和初期の千曲川築堤により現在地に移築されています。

2007/02/06
勘助宮跡地(長野市)

「啄木鳥の戦法」失敗の責任を感じ、敵陣に身を投じていった勘助の最後は壮絶であったと伝えられています。ここに建っていた真木神社を後に勘助宮と呼ぶようになりました。

現在は、長野オリンピックスタジアムがある南長野運動公園の南西に石碑が建っています。

2007/02/06
十王堂(長野市)

川中島合戦の戦死者とこの一帯で犠牲になった村人の屍を集め、霊を弔ったと伝えられま
す。

後にお堂を建て、本尊阿弥陀如来と十王尊を安置したといわれます。

2007/02/06
明徳寺[高坂弾正の墓](長野市)

読みは「めいとくじ」。武田二十四将のひとり、高坂弾正(こうさか・だんじょう)が再興した寺です。本堂の裏には「蛙合戦」で知られる池。

また、ここには第二次大戦中、硫黄島で散った地元松代出身の栗林忠道中将の墓もあります。

2007/02/06
大通寺・真理姫の供養塔(木曽町)

大通寺は慶長四(一六〇一)年、真理姫を妻に迎えた木曽義昌の重臣・山村良勝によって創建されました。

木曽家の屋敷跡に建てられており、境内には真理姫の供養塔がのこされています。

2007/02/06
大島城跡・台城公園(松川町)

平安末期、船山城主片桐為行の第8子・大島八郎宗綱が分地し、大島郷を領した。その後、大島氏が代々この地を領し、大島城を始め北の城や沼の城を築いた。元亀2年(1570)武田信玄が飯田城代秋山信友に命じ、上洛の拠点とするため城を大修築した。天正10年(1582)織田信長が伊那に侵攻し飯田城を落としたため、武田勢は伊那の勢力を大島城に集結させたが、守将武田信康は大島城を捨てて甲斐に敗走したため落城した。

現在は都市計画公園として整備されて、4月下旬から5月中旬には、大小紅白紫のキリシマツツジが園内に5000本程咲きほこり、5月のゴールデンウィーク中には「台城つつじまつり」が盛大に行われます。


問い合わせ先
 松川町役場産業振興課内
 松川町観光協会 
 電 話  0265-36-7027

2007/01/31
屋代城(千曲市)

武田晴信を武力で2度までも打ち破った村上義清でしたが、真田幸隆による「砥石城」乗っ取りに続いて、一族とされた屋代氏、塩崎氏の寝返りが、最終的に義清に葛尾城脱出を決意させたと言われています。

つまり、見方によっては屋代氏を「村上義清の喉元に刃を当て、川中島の戦いの引き金を引いた武将」とも言うことができるかと思いますが、この屋代氏の居城は現在のしなの鉄道屋代駅東側の山上にあります。(武田寝返り後、屋代氏は荒砥城に移っています)

屋代氏は村上氏に仕えたあと、武田方に寝返り、武田氏滅亡後は上杉、徳川とその主を代えた武将でしたが、そうした先を見越した機転・先見性があったせいか、家は徳川の旗本として幕末まで存続し、現在も子孫の方が国内に暮らしていらっしゃいます。

2007/01/10
耕雲寺(坂城町)

耕雲寺は、室町時代末期から安土桃山時代の創建とされ、甲州耕雲寺系といわれている。武田信玄・勝頼の篤い保護を受け、寺名も信玄が名づけたと伝えられている。山門に通じる道には、杉並木が広がる。

しなの鉄道テクノさかき駅下車、車10分。

2007/01/10
高島城(諏訪市)

近世大名諏訪氏の居城。原作では山本勘助が初めて諏訪頼重の娘、由布姫を見る場面に登場しますが、当時の高島城は上諏訪茶臼山にあった山城。天文十八(一五四九)年、諏訪統治の拠点を上原城からここに移しました。

江戸時代の高島城は諏訪湖に突き出したかたちで建っており、「諏訪の浮城」「水城」と呼ばれていました。

現在は、本丸に天守、櫓、門、塀が復元され、城内では、諏訪氏ゆかりの品々が展示されています。周辺は公園として整備され、桜の名所としても知られ、多くの観光客で賑わいを見せています。

2007/01/06
小坂観音院・由布姫の供養塔(岡谷市)

信玄の側室、勝頼の母・由布姫の供養塔が境内に建つ真言宗のお寺。南信八名所、諏訪八景に数えられている。ご本尊は十一面観世音菩薩。近くの小坂公園はあじさいの名所でもあり、諏訪湖や八ヶ岳連峰が一望できる。

2007/01/06
塩尻峠(塩尻市)

信玄の信濃攻略の大きな転機となった小笠原長時との合戦がここで繰り広げられました。塩尻峠に陣を敷いていた長時の軍勢は五千。武田軍は大井の森までゆっくりと進軍してきたため、戦の開始までまだ余裕があろうと小笠原軍は油断してしまいました。ところが夜明けとともに信玄は一挙に塩尻峠に奇襲をかけ、敵に致命的な打撃を与えたのです。

現在柿沢地区には、武田軍により首実検にされた戦死者を村人が埋葬した首塚・胴塚が残されています。長時はこの合戦以降、信玄に負け続け、林城、深志城を明け渡し、村上義清を頼ることになりました。

2007/01/06
新海三社神社(佐久市)

佐久地方の総社で古来より武将の崇敬を集めた。上州攻略の際、信玄が奉納した戦勝祈願文が残る。境内の御魂代石は耳を当てると諏訪湖の水音が聞こえるという。

2007/01/06
小諸城址・懐古園[かいこえん](小諸市)

白鶴城、酔月城の美しい別名をもつ小諸城は、信玄が山本勘助と馬場信房に命じて築かせ、武田氏滅亡後は仙石秀久によって完成された。現在は、懐古園と呼ばれ、園内には城ゆかりの武具や古文書を展示した徴古館、藤村記念館があるほか、小諸義塾記念館、郷土博物館、動物園、遊園地などの施設が点在する。天守や本丸跡などの石積みが残り、懐古神社横の鏡石は山本勘助愛用と伝えられる。入り口の三の門にかかる額の字は徳川家達の筆。詩碑や句碑も多く、桜の名所でもある。

2007/01/06
松本城[深志城](松本市)

小笠原長時を破り松本平を手中にした信玄は、府中松本にあった深志城に注目して大改修を行った。武田氏滅亡後、長時の長男貞慶が入城し、城下町を広げて天正年間に松本城と改称した。その後、石川数正が入り、天守、櫓を建てて、現在見られる松本城が完成した。近年は太鼓門が128年ぶりに復元されるなど整備が進んでいる。

城下町松本を巡るのに便利なのが、1回100円で乗車できる周遊バス。松本城、謙信が信玄に塩を送った故事にちなんだ牛つなぎ石、蔵の町中町通り、善光寺道名所図会に当国第一の名水として紹介される源智の井戸などをカバーしている。

2007/01/06
平倉城跡[小谷城跡](小谷村)

上段、中段、下段の三段式の築城。上杉によって城を守っていた飯森盛春は、信玄の武将山県昌景に攻められて討ち死に、城は落ちた。その際、武田方では残党狩りを行い男は皆切ってしまったとの伝説をもつ「切った屋敷跡」などが残る。城跡の下を流れる中谷川を雨飾山方面へとさかのぼれば山間の“いで湯”小谷温泉に至る。

2007/01/06
上田原古戦場碑(上田市)

千曲川左岸に広がる上田原は、都市化に伴って急速に姿を変えつつある。それでも新幹道路を一歩奥に入れば田園地帯が広がり、標識も整備されていて歴史ウォークが楽しめる。武田軍と村上軍の壮絶な戦いを今に伝える古戦場公園と、上田原一帯を見渡せる千曲公園はぜひ訪れたい。

信玄の重臣で勘助を庇護した板垣信方の墓には、信方が愛煙家だったとの言い伝えからタバコを供えると願い事がかなうともいわれている。観音寺は討ち死にした将兵をまつる。周辺には村上軍の将・雨宮刑部、屋代源吾基綱、小島権兵衛の墓が田園の中に建つ。

2007/01/06
生島足島神社(上田市)

川中島の戦いを前に、信玄が戦勝と謙信滅亡を祈願した古社。信玄が家臣の武将らに忠誠を誓わせた起請文も県宝の歌舞伎舞台に展示されている。下社脇の夫婦欅は真田信之と小松姫の夫婦愛の象徴であり、子宝安産・夫婦円満・延命長寿のご神木として崇められている。

2007/01/06
荒砥城跡(千曲市)

葛尾城と千曲川を挟んで対岸に位置する城で、村上氏一族の山田氏の居城といわれる。この城をめぐって、武田、上杉の戦いが繰り広げられた。現在、櫓や矢倉、冠木門などが復元され、千曲川を見下ろす史跡公園になっている。

大河ドラマ「風林火山」のロケで実際に撮影に使用され、劇中では武田晴信の初陣の場所「海ノ口城」として登場。(2月25日放送第8回「奇襲!海ノ口城」)

2007/01/06
善光寺(長野市)

古くからの庶民信仰の寺。天文24年の第二回川中島合戦の後、信玄は本尊阿弥陀如来を甲斐へ、謙信は尊像や仏具を越後へ移した。武田氏滅亡後、本尊は織田信長、徳川家康、豊臣秀吉と渡り、42年後に信濃に戻ったという。寺には、信玄・謙信の位牌が並んで納められている。

境内横の城山公園は、川中島の戦いの折、上杉謙信が本陣とした横山城にちなむ名前。宿坊が並ぶ小道の散策や城山公園内の桜、信濃美術館東山魁夷館もおすすめ。

2007/01/06
海津城(松代城)跡(長野市)

信玄が北信濃への最前線基地として山本勘助に命じて築かせた深い城。それまでの山城にかわり、他の武将に先駆けて平野部に築いた平城で、甲州流築城技術を用いたとされる。城の西を流れる千曲川の水運を意識して堀とし、その自然堤防上に本丸と二の丸を築く。自然の地形を巧みに利用した堅固な造りになっている。

初代城将は高坂弾正。築城当時は「海津城」と呼ばれていたが、関ヶ原の戦いの前に当時の城主森忠政が「待城」と改めた。その後、松平忠輝が「松城」と改め、さらに真田三代自藩主幸道のときに「松代城」に改められたという。平成7年からの整備工事で太鼓門や北不明門などが復元、かつての姿がよみがえった。本丸跡の石垣に上がると、謙信が陣を張った妻女山がよく見える。桜の名所としても有名。

2007/01/06
八幡原史跡公園(長野市)

5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦い。永禄4年の戦いの舞台になったのが八幡原。第4回目の戦いが最も激しく、山本勘助、武田信繁などが戦死している。史跡公園の松林の中には静かに八幡社がたたずみ、境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像や三太刀七太刀の碑、両軍の戦死者を葬った首塚などがある。

公園を囲むように桜が植えられ、花の時期は見事。芝生広場や池などが整備されて子どもたちの格好の遊び場ともなっている。隣接する長野市立博物館では、長野盆地の歴史と生活をテーマに出土品や資料を展示。プラネタリウムも併設されている。

川中島の戦いの特別企画展も行われる。
(平成19年3月24日[土]~12月16日[日])
詳しくはこちらから

2007/01/06
高遠城(伊那市高遠町)

勘助曲輪の跡が残る武田ゆかりの城。
高遠は南北朝時代から諏訪氏の一族、高遠氏が支配していました。天文十四年、信玄が高遠頼継を攻略。山本勘助に命じて改築させたと言われ、伊那攻略の拠点としました。

永禄五(一五六二)年、十七歳で信玄と由布姫の子勝頼が城主となり、九年間この地を治めました。天正九(一五八一)年には信玄の五男の仁科盛信が城主となりましたが、天正十年織田軍に攻め滅ぼされます。

明治維新後、城跡にコヒガンザクラが植えられました。春になると千五百本の見事な桜が咲き誇り、南信州を代表する花見の名所となっています。

なお、優秀な人材を輩出した進徳館や中村不折、池上秀畝、江崎孝坪等の作品、高遠出身の画家原田政雄のコレクション668点を展示する信州高遠美術館も隣接しています。

2007/01/06
建福寺・由布姫の墓(伊那市高遠町)

臨済宗大宝山建福寺は永禄五年高遠城主となった武田勝頼、後の城主保科氏の菩提寺とされた。また、勝頼の生母「諏訪御料人」(由布姫)は勝頼が高遠城主となった時高遠に移りこの地で逝去、この寺に葬られている。

この寺には、江戸期高遠の石工を代表する守屋貞治、渋谷藤兵衛等による数多くの石仏がある。

2007/01/06
信玄塚(信玄公の宝篋印塔)(根羽村)

信玄公は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略の後、鳳来寺にて肺肝の療養をしていたが、病状が思わしくなく、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中元亀4年(1573)4月12日、53歳にて、ここ”ねばね”の上村において他界された。(「甲陽軍鑑」より)

その折風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。根羽村史跡信玄塚はこれより下方五十メートルの所に有る。

寛文年間(1661~1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し供養のため、この宝篋印塔を建立した。降って宝歴(1751~1764)の頃、横旗・中野・砦の三部落の人々によって武田神社として祀られた。

この宝篋印塔は、昭和28年池上年氏の鑑定により、室町時代末期の型式をそなえ、城主・大名級のものであるとされている。(根羽村教育委員会)

2007/01/06
長岳寺・信玄公供養灰塚(阿智村)

長岳寺は、武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺。信玄公は野田城攻めの最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の里、駒場の山中で落命。享年53歳。

信玄公の義理の兄弟、下条家出身の六世裕教法印が長岳寺の住職を務めていた関係で信玄公の遺骸が長岳寺に運び入れられたが、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰った。その後、長岳寺を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下条伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られた。

昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立された。

信玄使用の兜の前立て2種「鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付」大日の丸練革製朱塗」が寺宝として残っている。

2007/01/06
真理姫五輪の塔(木曽町)

真理姫は、木曽家十九代義昌の夫人である。夫人は甲斐の武田晴信(信玄)の三女で、勝頼の妹でもあるが、戦国の世に生まれ、数奇な一生を過ごし、この地で亡くなっている。

●弘治元年(1555)武田晴信は、木曽へ侵攻し木曽義康(十八代)は、利あらず降伏する。晴信はこれを許し、当時十六才の義昌に、幼少六才の三女真理姫をめとわせて、木曽氏を武田一門の親族衆に加えた。これ以来真理姫は木曽義昌夫人となる。

●天正元年(1573)晴信卒し、勝頼の代となる。

●天正三年(1575)勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗し、武田氏の勢力俄に衰える。

●天正十年(1582)一月、夫人真理姫は義昌離反を勝頼に内報する。勝頼大いに怒り木曽へ武将を派遣し攻めるも、義昌これを鳥居峠で破る。二月には勝頼自身出兵し、再び木曽。織田連合軍に敗れ去る。ついで甲斐を攻略され、部下将兵も離反し勝頼天目山で自刃し、武田氏ついに亡ぶ。

●天正十八年(1590)木曽は豊臣秀吉領となり、木曽氏は下総網戸へ、わずか一万石の領主として移封された。

●慶長元年(1596)義昌の長子義利(二十代)は、暗愚のため、木曽家は家康により没収、お取潰しとなる。

●夫人真理姫は、三男三女の母となっていたが、末子善通(義一)をつれ、三岳村野口の上村作右衛門に身をよせ、隠棲しながらも、木曽谷の士豪にはかり、木曽家再興を念願したが、時代の流れは大きく変わり、果たせなかった。

●正保四年(1647)7月7日真理姫は、九十八才の長い一生をこの地で終えたと伝えられている。

2007/01/06