'07信州キャンペーン 「信州・風林火山」
風林火山 史跡ガイド
「信州・風林火山」 インフォメーション
風林火山 年表
信玄の 隠し湯ガイド
旅行情報
「信州・風林火山」史跡マップ
長野県市町村 「風林火山」リンク集
トップページに戻る

「風林火山」インフォメーション
上杉方ゆかりの史跡
塩の道

松本から糸魚川を結ぶ120キロあまりの道は、いつの頃からか「塩の道・千国街道」と呼ばれるようになりました。謙信が川中島の合戦で宿敵信玄に、牛馬の隊列を整えて塩を送った『敵に塩を送る」という美談で知られるのもこの街道のことです。塩の道は古道として今でもいくつも残っています。

2007/02/06
志賀城跡(佐久市)

天文十六(一五四七)年、信玄と佐久地方最後の砦となる志賀城主・笠原清繁との戦いは壮絶を極めたといわれます。後詰めを頼んだ上野国の上杉憲政は三千の軍勢を送りましたが、信玄は志賀城を包囲させたまま、上杉軍を迎撃。小田井原でこれを破り、討ち取った三千もの首を志賀城の周囲に架けて威嚇したと伝えられます。

清繁の首塚が城の近くの水田に残されています。

2007/02/06
板垣信方の墓[いたがきのぶかたのはか](上田市)

信玄の重臣で勘助を庇護した板垣信方のお墓が板垣神社にあります。

2007/02/06
小菅神社(飯山市)

役小角が創建したと伝えられる修験場。戸隠、飯綱と共に北信三大修験場として栄えました。弘治三(一五五七)年、上杉謙信が戦に勝ったら寺領を寄進すると願文を捧げました。

焼失を免れた奥社は国重要文化財です。

2007/02/06
富倉峠[とみくらとうげ](飯山市)

越後・春日山城から川中島に出陣する際、上杉軍が使用したとされる峠。謙信は一気に戦場に向かわず、まず飯山城に入って万事を調えました。

2007/02/06
野尻湖城跡

永禄七(一五六四)年、信玄は謙信の関東出兵に乗じ、越後国境の野尻湖城まで攻め上がります。謙信はすかさず城を奪還。その勢いで川中島に進軍し、塩崎で対峙しました。しかし両軍一戦も交えることなく撤退。これが最後の川中島の戦いとなりました。

2007/02/06
旭山城跡(長野市)

善光寺の北西、裾花川を挟んで上杉軍の葛山城跡と向かい合い、たびたび両軍による城の争奪戦が繰り広げられました。

北信濃の有力者であった善光寺別当の栗田鶴寿が立てこもり、信玄が援軍と鉄砲三百丁を送り届けたとされています。

2007/02/06
葛山城跡〔かつらやまじょうあと〕(長野市)

信玄の旭山城に対する向城として謙信が整備・拡大を行いました。

弘治三年に信玄の命を受けた馬場氏によって落城し、現在、城があった山頂は見晴らしの良い公園になっています。

2007/02/06
謙信物見の岩(長野市)

善光寺の裏手、大峰城へと続く遊歩道の途中に謙信が武田軍の動きを見張るために使ったといわれる巨石がのこっています。

2007/02/06
武水別神社[たけみずわけじんじゃ](千曲市)

平安中期の延喜式にも登場する大社です。

弘治三(一五五七)年、武田軍との合戦を前にした謙信が信玄討伐の加護を祈った願文を奉納したと伝えられています。

2007/02/06
飯縄大権現(長野市)

飯綱山に祀られている飯縄大権現は、不動明王の化身とされ、戦国大名の守護神。

謙信は兜の前立てに飯縄明神像を使い、信玄も持仏として身につけていたと言われています。

2007/02/06
妻女山[さいじょざん](長野市)

第四回川中島の戦いの際、謙信が本陣を構えて海津城の動向をとらえた場所です。

海津城から立ち昇る炊事の煙を見て、謙信は山本勘助の「啄木鳥の戦法」を見破ったとされています。

2007/02/06
雨宮の渡し[あめのみやのわたし](千曲市)

第四回目の戦いの際、海津城から上る炊事の煙の数から、奇襲を察知した上杉謙信は、夜半過ぎに「雨宮の渡し」を越え、霧の中密かに武田軍に近づきました。

渡しがあったとされる場所は現在公園として整備され「鞭声粛々夜河を渡る…」の頼山陽の石碑とともに、住時をしのばせています。

2007/02/06
十王堂(長野市)

川中島合戦の戦死者とこの一帯で犠牲になった村人の屍を集め、霊を弔ったと伝えられま
す。

後にお堂を建て、本尊阿弥陀如来と十王尊を安置したといわれます。

2007/02/06
葛尾城(坂城町)

村上義清公の居城は、山城である葛尾城となっている。ふもとの坂城神社から往復約2時間のトレッキングができる。

東側の尾根づたいに幾つもの堀切跡が残り、当時の山城の険しさが伺える。また、城跡から眼下に千曲川を望む眺望は雄大。

2007/01/10
村上義清公供養塔(坂城町)

村上義清公は、川中島合戦後、越後に移り、73歳で没したと伝えられている。義清公の供養塔は、江戸時代、坂木代官長谷川安左衛門らによって建立されている。

しなの鉄道坂城駅下車 徒歩10分。バスの駐車は困難。

2007/01/10
満泉寺(村上義清居館跡、坂城町)

村上義清公に代表される村上氏代々の菩提寺で、村上氏の居館跡に移築されたもの。

しなの鉄道坂城駅下車 徒歩10分。バスの駐車は困難。

2007/01/10
笄の渡し(坂城町)

読みは「こうがいのわたし」。
坂城町と千曲市との境界に係る橋で、村上義清公の居城の葛尾城が陥落し、奥方が逃げ延びる際の話から名づけられたもの。

天文22年(1553年)4月、武田軍の調略にもはやこれまでと悟った村上義清は、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って密かに落ちのびることを決意。しかし、周りを敵に囲まれた状況で、とても奥方を連れてはいけなかった。そこで仕方なく奥方は千曲川を挟んで対岸にある東国寺に逃げ込み、仏門に帰依して俗世との関わりを断ち、武田方に捕らわれることから逃れようと考えた。

義清の奥方は、数人の腰元と着のみ着のまま暗い山道をくだり、荒砥城を目指したが、一行の前には、雪解けの水を満々とした千曲川が広がっていた。

敗軍の将の奥方を逃がす手伝いをすると、後に咎められることになってしまうことを心配して、向こう岸に渡るための舟を出してくれる船頭はなかなかみつからなかったが、懸命に説得したところ、ひとりの船頭が、戦いの最中にもかかわらず舟を出してくれた。

我が身の危険をかえりみず、舟で渡してくれた船頭に、奥方は心を打たれ、お礼として髪にさしていた笄(※)を手渡したと言われている。

※こうがい=髪をかき上げるのに使った、箸[はし]に似た細長い道具。主に銀・象牙などで作られた。

2007/01/10
平倉城跡[小谷城跡](小谷村)

上段、中段、下段の三段式の築城。上杉によって城を守っていた飯森盛春は、信玄の武将山県昌景に攻められて討ち死に、城は落ちた。その際、武田方では残党狩りを行い男は皆切ってしまったとの伝説をもつ「切った屋敷跡」などが残る。城跡の下を流れる中谷川を雨飾山方面へとさかのぼれば山間の“いで湯”小谷温泉に至る。

2007/01/06
荒砥城跡(千曲市)

葛尾城と千曲川を挟んで対岸に位置する城で、村上氏一族の山田氏の居城といわれる。この城をめぐって、武田、上杉の戦いが繰り広げられた。現在、櫓や矢倉、冠木門などが復元され、千曲川を見下ろす史跡公園になっている。

大河ドラマ「風林火山」のロケで実際に撮影に使用され、劇中では武田晴信の初陣の場所「海ノ口城」として登場。(2月25日放送第8回「奇襲!海ノ口城」)

2007/01/06
飯山城址(飯山市)

謙信が川中島合戦の拠点として築城。階段式に郭を配した「後堅固の城」で、12年間にわたる合戦でも落ちることはなかった。今は石垣が残る城址公園になり、桜の名所になっている。小京都ともいわれる飯山は寺の多い町。城址公園には寺めぐり遊歩道が整備され、しっとりした風情が楽しめる。

2007/01/06
善光寺(長野市)

古くからの庶民信仰の寺。天文24年の第二回川中島合戦の後、信玄は本尊阿弥陀如来を甲斐へ、謙信は尊像や仏具を越後へ移した。武田氏滅亡後、本尊は織田信長、徳川家康、豊臣秀吉と渡り、42年後に信濃に戻ったという。寺には、信玄・謙信の位牌が並んで納められている。

境内横の城山公園は、川中島の戦いの折、上杉謙信が本陣とした横山城にちなむ名前。宿坊が並ぶ小道の散策や城山公園内の桜、信濃美術館東山魁夷館もおすすめ。

2007/01/06
八幡原史跡公園(長野市)

5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦い。永禄4年の戦いの舞台になったのが八幡原。第4回目の戦いが最も激しく、山本勘助、武田信繁などが戦死している。史跡公園の松林の中には静かに八幡社がたたずみ、境内には信玄・謙信両雄一騎討ちの像や三太刀七太刀の碑、両軍の戦死者を葬った首塚などがある。

公園を囲むように桜が植えられ、花の時期は見事。芝生広場や池などが整備されて子どもたちの格好の遊び場ともなっている。隣接する長野市立博物館では、長野盆地の歴史と生活をテーマに出土品や資料を展示。プラネタリウムも併設されている。

川中島の戦いの特別企画展も行われる。
(平成19年3月24日[土]~12月16日[日])
詳しくはこちらから

2007/01/06