上田城を訪れた人の中には、城跡の周りに水の満たされた「堀」がはっきり見えず、「堀が本当にあったのか」「なぜ今はないのか」と疑問を抱く方が少なくありません。実は上田城にはかつて様々な堀が存在し、戦乱の影響や復興、さらには明治以降の都市化によって大きく姿を変えてきました。本記事では、最新情報を元に、上田城の堀が「なぜ見えない・ないように思える」のか、その歴史を紐解いていきます。堀の種類・埋め立て時期・現在残っている遺構などを体系的にご紹介します。
上田城 堀 なぜ ないという疑問の背景
「上田城 堀 なぜ ない」というキーワードには、城跡を訪れた人が目にする風景と、歴史から伝えられる堀とのギャップへの驚きがあります。まず、かつての城は川や堀で囲まれていたが、現在はその痕跡すら薄れている部分があるため、「堀がない」と感じられることが主な背景です。
また、歴史的文献や絵図には堀の存在が記録されており、特に本丸・二の丸の周囲や北方の「百間堀」「広堀」など大規模な水堀が示されています。しかし、時代の変化でこれらの堀が埋められたり、水が枯れたりして、見た目として堀らしくない空堀や陸地になっている場所が多いことも「ない」に錯覚する原因です。
さらに、自然地形の利用—崖や川などを「天然の堀」として防御に活かした構造—が城造りの中心だったため、人工的な堀が少ない場所や、ある部分のみ堀が明確だったことも、「堀がない」の印象を強めています。
天然要害としての地形利用
上田城は南側を千曲川の分流「尼ヶ淵」という断崖に臨んでおり、崖と川によって天然の要害が形成されていました。つまり人工的な堀を深く造る必要が少なかった場所があるため、「堀がない」と感じられる南側の風景が続いています。
また、北西側にはかつて川の流路を改変し、外堀や大水壕とした部分がありましたが、その後の埋め立てや用途変更で形状が変化し、現在では運動施設や広場などとして土地が活用されており、「堀だった部分」が見ただけでは分かりにくくなっています。
戦国・江戸期の破壊と復興の歴史
1600年の関ヶ原の合戦後、徳川政権によって上田城は「破城」とされ、本丸の堀をはじめ建造物が壊され、堀は埋められる処置が取られました。これは城郭としての機能を封じるための政策の一環です。
その後、仙石忠政が藩主として上田城を復興し、堀や石垣、櫓などが再建されましたが、復興後の構造も完全に元に戻されたわけではなく、部分的な工事と変化を伴っていたため、「元の堀」の一部はその後姿を消してしまいました。
明治以降の都市化と利用変化
明治維新以降、城郭は役割を終え、多くの櫓や石垣、堀・土塁などが解体または埋め立てられました。城跡は公園化され、運動施設や駐車場など、公共利用のために転用された場所が多くあります。これにより堀としての機能を失った部分が目立つようになっています。
また、近年の復元整備においても堀の水を常時満たすような復元はされておらず、空堀として残っているものの、水濠としての迫力や景観は失われつつあります。
上田城にはかつてどのような堀があったか

歴史的記録や古図によると、上田城には本丸・二の丸の周囲に多数の水堀が存在しており、北側・西側・東側には「百間堀」「広堀」といった大規模な堀が設けられていました。南側は川と崖を天然の防御として活用していたため、人工堀はあまり深くない、または不必要とされた場所もありました。
本丸周辺の水堀
本丸東・北・西側には人工的に掘られた堀があったことが古図に記されていますが、もともとは水を満たしていたが、後に空堀化または埋められたという記録があります。堀には水抜き用の排水口が設置されていた場所も確認されており、水濠としての機能が意図されていたことは確実とされています。
二の丸の百間堀・広堀
二の丸北側~西側を巡っていた百間堀・広堀は、神川からの取水や周囲河川の水を引き込むことで常に水がある水濠でした。幅の広い堀で、防御機能だけでなく視覚的な威圧感を与える構造としても重要でした。
三の丸・外堀の構造
城の外側には三の丸、小泉曲輪などの曲輪が配置され、外堀の役割を果たす流路の改変や川の利用がなされていました。城下町との境界を画し、防御線として城郭の外周を囲むように惣構(外堀)が整備されていました。
なぜ堀が「ない・見えない」のか:埋め立てと変化の過程
上田城の堀が「ないように見える」理由は、歴史の中で度重なる埋め立て・破壊・土地利用の変化があったためです。それぞれの時期に応じて何が起きたのかを整理します。
関ヶ原後の破壊(慶長期)
関ヶ原の合戦後、徳川方は上田城を破却し、本丸・二の丸の堀を含む防御構造を壊すよう命じました。これにより堀が埋められたり、土塁が取り壊されたりした結果、防御要素としての堀の多くが失われています。
仙石氏による復興と制限された再構築
代替藩主となった仙石忠政が城を復興する際、堀や石垣、櫓などを再建しましたが、すべての堀が元通りになったわけではありません。絵図に「ウメホリ(埋堀)」の注記が見られるように、東北隅などには堀が埋められた状態で残るところがあり、あえて空堀の形で残す部分もあったと考えられています。
明治以降の公共利用と都市化
明治維新後、城は軍の使用施設や民間への払い下げに伴い、建物が解体され、堀は埋め立てられました。その後、公園や運動場、駐車場などとして土地が整備され、堀の跡地が形状として残るものの、水を湛えた堀としての姿は消えていったのです。
近代整備と復元活動の現在の状況
近年、市民団体や行政によって櫓や櫓門の復元、城の歴史を示す遺構の整備が進められており、空堀・土塁など堀の形を残す構造が保存されています。ただし水をためる堀の復元は難しく、景観としての水濠は限定的です。
現在残っている「堀」の遺構たち
埋め立ての影響は大きいものの、上田城には今なお堀や空堀・土塁などの構造が残されており、歴史を感じられる場所が複数存在します。歩いて見る価値のある遺構を紹介します。
空堀の東虎口と北虎口の石垣付近
本丸東虎口前にはかつて水堀だった可能性を持つ堀があり、現在は空堀として残っています。正保4年(1647年)の城絵図には「から堀」の表記があり、排水口が確認されていることから、水濠としての利用があったとされます。北虎口付近にも堀跡が石垣と共に確認されています。
百間堀・広堀跡と運動施設跡地
二の丸北~西側を巡る百間堀・広堀は、かつての水堀の名残として陸上競技場や野球場として活用されており、その土手や地形から往時の幅や深さのイメージをたどることができます。堀そのものは水を湛えていませんが、痕跡がしっかりと残されています。
土塁と隅欠(すみおとし)・鬼門除けの構造
城の本丸には北東隅の土塁に「隅欠(すみおとし)」と呼ばれる凹ませた角の構造が見られ、鬼門除けの意図が込められていました。土塁の形状や傾斜、堀の内側へ凹んだような見え方は、堀と土塁がセットで防御構造として機能していた証です。
堀が見えにくくなった・「ない」と感じられる具体的原因
上田城を歩いていて「堀がない」と感じるのは、遺構の物理的な変化だけでなく、視覚的・心理的要因も絡んでいます。どのようなことが原因になっているのかを整理します。
水のない空堀と草木の繁茂
かつて水を張っていた堀が水を抜かれたり、水源が断たれたりして空堀化すると、水の存在による威圧感や視覚的な深みが大きく失われます。さらに草木が堀底や堀の縁に繁茂することで、堀の構造が埋もれ、その起伏が判りにくくなってしまいます。
埋め立てと地形の改変
明治期以降の埋め立て、都市計画や交通インフラの敷設、公園整備や運動施設設置などが行われ、堀の多くの部分が地盤で埋まりました。特に北側・西側の堀跡は陸上競技場や野球場などに転用されたため、地形としては平坦な芝生やスタンドになっています。
遺構保存の制約と復元の許可・予算問題
遺構を完全に復元するには、土地の所有権や周囲施設・道路との関係、文化財保護条例など様々な制約があります。予算面でも、水を張った堀を維持するには水源管理や防水工事等が必要であり、それが難しいケースも多いです。
比較:上田城と他のお城との堀の違い
上田城を他の城郭と比較することで、「なぜ堀がない」と感じられるかの理解が深まります。他城との形式的・機能的な比較をしてみます。
| 比較対象 | 堀(水濠)の存在 | 天然地形の利用 | 現在の遺構の見え方 |
|---|---|---|---|
| 上田城 | 一部水があったが多くは空堀または埋め立てられた | 南側の川・崖を天然の防御として活用 | 草木や地形で堀の輪郭のみ確認できる |
| 松本城など典型的な水堀城 | ほぼ全周を水堀が取り囲む | 地形利用は補助的 | 水のまとまりがあり、景観として明瞭 |
このように、上田城は天然地形を巧みに取り入れている点で他城と異なり、水濠そのものを中心に防御を設計していない部分があります。そのため、「堀がない」ように見える部分が多い反面、地形や遺構から堀の存在を読み取ることが可能です。
これからの復元と堀復活の可能性
上田城の未来には、失われた堀を復元しようという動きがあります。市民団体や行政が共同で本丸の櫓再建や東西虎口周辺の遺構保存などを進めており、堀の形を示す遺構の活用や空堀の修復も視野に入っています。
市民復元活動と櫓復元の目標
櫓門や4つの櫓がかつてあった本丸の姿をできるだけ再現しようという声が強く、歴史資料や古図を元に復元計画が進められています。堀の水をためる復元についても可能性を探っていますが、地形や予算条件、文化財保護法などの関係で慎重な検討が必要です。
遺構の保存・見せ方の工夫
空堀や土塁を露出させてその形を保存することや、遊歩道や案内板などで堀があった位置を示す取り組みがなされています。特に二の丸北側・百間堀・広堀跡では、運動施設の土手や傾斜から堀の幅や形を体感できる工夫がされています。
水濠復元のハードルと実現可能性
水を張る堀の復元には、水源確保や排水設備の整備、防水改修が必要です。また周囲の土地利用や都市インフラとの兼ね合いも大きな課題です。そのため全周水濠復活ではなく、水のある部分を限定的に復元する案が比較的現実的です。
まとめ
上田城について「堀がない」と感じるのは、かつて深い水濠が存在した歴史にもかかわらず、関ヶ原後の破城、明治以降の埋め立て、都市化などにより、堀が空堀になったり完全に消失している部分が多いためです。
一方で、天然の地形や崖・川の利用、土塁・隅欠などの遺構が現在も残されており、「堀がない」のではなく「かつての形が見えにくくなっている」のが実態です。最新の整備活動や復元計画では、空堀の保存や表現、遺構を示す表示、さらには部分的な復元も検討されており、今後の発掘と復元によって再び堀のイメージが多くの人に伝わるようになる見込みです。
上田城を訪れる際は、堀があった場所を意識して散策することで、土地の傾斜や土塁・空堀といった「形」を通じて城の防御構造と歴史を深く感じられるでしょう。
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